幕張メッセのそのむかし――はじめに――
1:200,000地勢図「東京」,「千葉」を見て…
使用した地勢図:平成9年要部修正「東京」、平成9年要部修正「千葉」
京葉線の車内はやかましい!と言っても、電車の騒音のこと。京葉線はそのほとんどが高架、あるいは地下だ。だから、地上を走るのとは違い、独特のゴォ〜っという音を発する。お喋りをしていても、話が聞き取りにくい事がよくあるんだ。
幕張と名の付く駅はメッセ周辺に3つもある。「海浜幕張(京葉線)」、「幕張(総武線・各駅停車)」、「幕張本郷(総武線・各駅停車)」の3つだ。始めてメッセに行く人は幕張駅で降りたら良いのか?と思うかもしれないが、そうじゃない。幕張メッセに行くなら「海浜幕張」で降りるのがBest。
幕張新都心の平日の昼間はゴーストタウンと化す。メッセでこれといったイベントも無い新都心の街中は誰もいない。ゴミ一つ落ちていないし、人っ子ひとりいない。
展示会、各種イベントが行われる幕張メッセ。東京ディズニーランド、新東京国際空港と共に千葉を代表する施設の1つだ。
幕張メッセのある海浜幕張駅周辺にはこのほかに、千葉ロッテマリーンズの本拠地である千葉マリンスタジアムと、幕張新都心と呼ばれるオフィス街がある。遊びに来る人、会社に行く人など、人それぞれなんだけど、「千葉都民」から脱却しようとする千葉の意気込みが感じられるし、海浜幕張駅を利用する群衆を見てると目的を達しているようにも思える。
でも、東京ディズニーランド、新東京国際空港、そして幕張新都心。千葉であるのに東京にちなんだ名称が付けられているのに釈然としないのは私だけだろか?もっと「千葉らしさ」を出してほしいものだ。
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海浜幕張駅(2000年6月)
この一帯は昔、干潟でした。 |
東京から京葉線で幕張メッセへ向かう時の事。新習志野駅を出て、次は海浜幕張駅っていう時に、外の景色を見ると草ぼーぼーの平原が広がっている(2000年6月現在)。これと言った使い道も無く放置されていると言う感じだ。
そんな景色がしばらく続くと、いきなり奇抜な格好のしたビル群を目にする(右写真)。海浜幕張駅を降りて駅周辺を歩いても、街は整備されているのがわかる。清掃のおばちゃんがいてるおかげで、目だったゴミも無いんだ。
そんな景色の変化を見ると、幕張メッセ周辺って、計画して作られた街だって事がよくわかる。
実はビルも含めてこの辺り一帯は埋立地で、昔は干潟だった。右の写真と同じ場所の風景を見ようとすると昔は、船(べか船?)を持ってこなくちゃいけない事になる。
干潟だった昔、この場所からどれだけ先の所に陸が見えたんだろう…?

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幕張メッセのそのむかし
拡大表示(1)・海浜幕張駅周辺
拡大表示(2)・幕張駅周辺
拡大表示(3)・谷津干潟周辺

新習志野〜幕張〜稲毛海岸〜千葉〜五井にかけての皆さんからの情報です。
- 幕張メッセの地図もいろいろ思い出あります。昭和42年に潮干狩りしました。その地図で 幕張駅左の踏み切り(ここは有名な開かずの踏み切りー地下道化工事が進んでおり前後の立ち退きもされており少し変わるはず)から郵便局に突き当たり左折し次に合流する道路は(回りくどい表現ですね) 旧国道14号千葉街道です。地図の左方国道14号がが旧道と分岐し 海側を平行に走っていますね。現地は いかにも旧街道という風情は有りませんが、注意してみるとやはり国道筋であることがわかります。(以上、千葉県 津田さん)
- 国道14号線の千葉西警察署をさらに下った国道沿いの海側には「稲毛海岸」という町名があり、丘側には病院(サナトリウム)があります。稲毛浅間神社の大鳥居は、昔は実は宮島の鳥居のように海中にある鳥居だったとか。(千葉県・長川さん)
- 私は京葉線開業以前にこのあたりに住んでいました。そうです、まさにこの地図の通りなにもなく、殺風景でただ、空き地はなぜかアスファルトで埋め固められていたので、よく私はここでローラースケートをしてました。海風が非常に強くて学校の校庭は貝殻だらけでした。稲毛と言う所がだいぶ今の海岸線より奥にあるのですが、40年ぐらい前はこのあたりが海岸線だったので未だに”稲毛海岸郵便局”というのがあります。また、海岸線ぎりぎりにたてられたいた戦時中に使われた飛行場跡や当時のなごりで旅館がいあっぱいあったり、おもしろいです。清の皇帝の弟の別荘跡もあったり、当時は避暑地だったそうです。でも今は海岸までは車でないと行けないほど埋め立てがすすんでいます。
- 袖が浦という地名も今では内房の一部の名称ですが、昔は今の江戸川区辺りから現在の袖ヶ浦までの海岸部分を袖ヶ浦を呼んだようです。(古い地図で見ました)確かに延々と連なる海岸(干潟)の帯は、あたかも腕を上げた時の着物の袖のようなイメージがありますね。(千葉県・長川さん)
- 袖ヶ浦という地名については、すでにISSIEさんのメールにもあるように、習志野市にも存在します。こちらは、埋め立て後の住所なので、比較的新しい方ではないかと思います。
私が思い出したのは、東京の江東区にあるものです。江東区東砂の6丁目と7丁目と8丁目が隣接するあたりに、城東消防署袖ヶ浦分署という消防署があります。交差点(3差路)にも「袖ヶ浦」とあります。もちろん、現在の地名は「東砂」ですので、旧地名か旧字ではなかったかと思います。(千葉県・長川さん)
- 私は,中学3年の1978年まで幕張の隣りの「習志野市袖ヶ浦」に住んでいました。その頃の幕張埋立地は全くの荒野でした。国道14号と湾岸道路の一般道との間に住宅団地がありますね。この区画(海浜ニュータウン幕張地区)だけは一足早く1970年頃に埋め立て造成が終わって1978年にはほぼ住宅地化が完了していましたが,現在幕張メッセのある区域の埋め立てはこのあたりでは最も遅く1974年頃から埋め立てが始まりました。確か,1973年が幕張海岸での潮干狩りのラストシーズンだったように記憶しています。
- 習志野市・船橋市沖合(海老川〜浜田川)の埋め立ては1972年度から。だから最後のシーズンになった1971年には全校で潮干狩りに行きました(私の家(公団の団地)も小学校も京葉道路をはさんで目の前が海でした。地図でわかるでしょ?)。 だから,我が家のベランダからは左手に千葉の川崎製鉄の煙突から房総の山々,伊豆・丹沢の向こうに富士山を見て,右手には江東地区から市川行徳の工業地区,そして船橋ヘルスセンターと,抜群の眺望が楽しめました。湾岸道路(一般道)が幕張まで暫定開業したのが1978年頃,埋立地に建物が建ちはじめるのは1980年代に入ってからですね。その頃には引っ越してしまったので,京葉線が開業したり,東関道が開通したり,といったあたりのことは知りません。
- 私の住んでいた「習志野市袖ヶ浦」自体も埋立地です。1967年に習志野市に編入されて,海岸の呼称から「袖ヶ浦」と名づけられた,と習志野市の記録にあります。公団の団地への入居は1968年夏から。このときに,我が家は市川市から越してきました。
- 「袖ヶ浦」というのは,ふつう東京湾の東海岸,おおよそ江戸川の河口から小櫃川の河口あたりまでの呼称と考えられています。でも,東京都側の大森や羽田のあたりの海岸も「袖ヶ浦」と呼ぶことがあったようなので,東京湾奥の海岸を漠然とさす地名と考えたほうがよいようです。
- 君津郡から市制施行した「袖ヶ浦市」の方も元からあった地名ではなく,楢葉町などが合併して新しい「町」が誕生したときに新たに名づけられたものです。
- 「袖ヶ浦」または「袖師ヶ浦」という地名の由来については,地元でこんな話があります。
むかし,東征に向かったヤマトタケルは,相模の走水から船で房総へ渡ろうとした。ところが海が荒れたので妻のオトタチバナが入水して犠牲となると,波はおさまりヤマトタケルは房総に渡ることができた。海岸にはオトタチバナの服の袖が流れ着いていた...
そこで作られた歌(ヤマトタケルが作ったのかどうかは失念),
「君去らず 袖師ヶ浦に立つ波の…(以下,失念)」
これが「袖ヶ浦(袖師ヶ浦)」という地名のもとになった,という話(あれっ,逆にこの地名があったから,この歌が作られたのかな?)。ついでに「木更津」「君津」という地名の由来も,これ,と言われています。ただし,「君津」は明治半ばの郡制施行に際して望陀郡・周准郡・天羽郡の合併で誕生した新しい「郡」のために創作された新地名で,それ以前には存在しないものでした。「袖師(ヶ浦)」という地名は,静岡県の清水市にもあります。ここも,ヤマトタケル伝説で有名な焼津に近いですから,千葉の袖ヶ浦と関連があるのかも知れません。(以上、ISSIEさん)

- 幕張新都心にようこそ
幕張メッセを含む幕張新都心のいろんなスポットのガイド。「歴史」のところに幕張新都心の構想段階からの詳しい説明があります。必見です。
- 幕張メッセ
日本コンベンションセンター。今月のイベントは?っと。


- 幕張メッセ建設工事の記録 千葉県企業庁 平成2年
まだビル群が建っていない頃の幕張の写真が載ってあります。