三番瀬の前身、新浜(昭和45年修正測量)


昭和45年修正測量 1:25,000地形図「船橋」
昭和45年修正測量 1:25,000地形図「浦安」

浦安町の埋め立てはわずか4年の間に驚くほど進んでいる。埋め立て前の海岸線は曲線を描いている道路から見当がつくはずだ。また、営団地下鉄東西線も開業している。

田んぼが一面に広がっていた行徳周辺も、縦横に道路が敷き詰められている。

ところで、新浜って知ってます?(私も知らなかった)。昔は三番瀬の代わりにこの言葉が使われていたのだそうだ。

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@:京葉道路 A:地下鉄東西線  

境界線
浦安町・江戸川区界:江戸川に境界線があるはずなのだが、境界線が見られない。
浦安町・市川市界
:埋立地部分まで伸びている。

営団地下鉄東西線の開業
中野〜西船橋間を結ぶこの鉄道は昭和44年に開通している。
0m地帯の拡大
地形図には記していないけど、江戸川区の0m地帯は昭和41年の時よりも拡大している。区南部の水没した土地はまだ手付かずの状態だ。
市川一期埋立て
昭和40年代始めからはじまっていた。

取り壊された新築校舎
東西線の開通による人口が増加で、浦安町の児童数が増えたこともあり、それまで一手に引き受けてきた浦安小学校から分離独立して新たにいくつかの小学校が開校している。
そのうちの一つ南小学校は昭和42年に開校した。分離した中では一番早いもので、校舎は鉄筋コンクリート3階建てだった。
けど、完成後の南小学校について「浦安町誌」はこんなことが書かれてある。
本校舎は完成後間もなく、一階玄関正面の壁に亀裂が生じ、続いて各所に変形、傾斜が発生し、校舎全体が波打ち状となり、いつ不慮の事故が発生するかも知れぬ危険な状態となった。
昭和45年にはプレハブの仮校舎が建てられ、そこで授業が行われた。結局、新築校舎は昭和46年に取り壊され、昭和47年に鉄筋コンクリート3階建ての新校舎が完成した。
これ以降の校舎は南小学校旧校舎の時の教訓を生かして地盤沈下に対応できるように、校舎本体を軽くしたり、出来るだけ正方形に近い形にするなどの工夫がされたという。
けど、これって公共施設だから簡単に建て直す事ができたんだけど、一般の住家はどうだったんだろう?
地盤沈下の原因は工業用水のくみ上げによることが解り、それからは法律等で工業用水のくみ上げ規制が布かれ、昭和50年代に入ってからは沈静化したそうな。

三番瀬の前身、新浜
図書館で野鳥保護に関する文献を調べたのだけど、昔の文献に「三番瀬」って言葉は使われていない。その代わりに「新浜」という言葉がよく出てくる。
昔の三番瀬に関する文献を調べたい時は「三番瀬」ではなく「新浜」で検索をかけたほうがいい。
新浜って市川市行徳から浦安にかけての浜のことを言うそうだ。
この新浜には宮内庁新浜鴨場が明治26年に開設されている。
新浜鳥獣保護についての動き
まだ埋立てが始まっていない昭和39年「新浜鳥獣保護区設置についての陳情書」が日本鳥類保護連盟から提出されている。
その内容は、「新浜鴨場を含み、東は江戸川まで、さらに海岸線より沖2.5kmの干潟を含む1,000haを鳥獣保護区とし、保護区より沖の埋め立ては中止する(要旨)」という壮大なものだった。もちろん、この中には現在の三番瀬と呼ばれている部分も含まれている。
一方、「それはやりすぎだろう」ということで、地元自治会、農協の反対派は「鳥獣保護区設置計画反対についての陳情書」を提出している。
昭和43年にはこの問題に対する答申が出され、鳥獣保護区の指定を明確にする一方で、市川市一期の埋め立て計画の実施は仕方がないとの結論に至った。
昭和45年には新浜鴨場と周辺緑地が「行徳近郊緑地特別保全地区」に指定され、その一部を鳥獣保護区とした。けどその総面積は83haにすぎない。
高度成長期の真っ只中ということもあり、自然保護っていう考え方が企業や一般の人達の間で広がってなかったのかもしれない。
新浜鳥獣保護に携わってきた方がこんなコメントを書いておられます。
新浜の保護区以外のところはおそろしいほどのスピードで埋め立てられ、建設が進んで行きました。昔日のあの鳥の国のおもかげは見るも無残です。ほんの少しの鳥がくるかどうか分からないような保護区のかわりに、すばらしい、かけがえのない本物の自然をあけ渡してしまったのです。


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